アルフレッド・アドラーの提唱したアドラー心理学の52の名言を問題解決の順に並べました。心理カウンセラーから優しく語りかけられるのを聞くように、順番にゆっくり読んでみてください。
他人の目を気にしすぎなくてもいい。自分を認めていい。 ―― 八方ふさがりになっていた考え方から新しい考え方へ目を向けたとき、急に楽になれます。
そして本当の安心・本当の幸せがどこにあるのか、どうやって手に入れたらいいのかが、だんだんつかめてきます。
アドラー心理学の特徴
周りの雰囲気に合わせたり、人を傷つけないようにするために、自分の意見を言えない。
自分が人から良く思われることを優先して、自分を押し殺し、周りから期待されている態度を演じてしまう。
このような考えのために、自分の人生を生きられなくなっている人がいます。
そういう人に、アドラーは対人関係を良くするための具体的な方策を、平易な言葉で示しています。
また、過去に人から深く傷つけられてきて、他の人とどう接していいのか分からなくなっている人に、「世界はとてもシンプルであり、幸せになるための行動をすぐにも始められる」ということを教えてくれます。
過去の出来事やトラウマから逃れ、人間関係の悩みを解消し、世界の一員として、安心して暮らせるようになります。
アドラー心理学の名言 幸せになる勇気
アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
フロイトの言うように、過去の原因が現在の結果を決めている(原因論)なら、「海でおぼれたことのある人は全員が二度と海に近づけない」のように、同じ原因には誰にでも同じ結果が出てくることになります。でも実際には、水への恐怖を克服して、また海で泳げるようになる人もいます。
アドラー心理学では、「二度と海で泳ぎたくない」という目的のために、「海に近づけないほどの恐怖」を自ら作り出している(目的論)、と考えます。自分で恐怖を作り出しているなら、それをやめる方法があるわけです。
われわれは原因論の住人であり続けるかぎり、一歩も前に進めません。
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
ショックを受けることはあっても、それによって何かが決定されてしまうわけではない、と言っています。その経験をもとにして、もっと用心深くなる、知識を増やすなど、自分の人生をどう生きるかを自分で選ぶことができるのです。
カッときて自分を見失い怒鳴ったのではない。相手を支配するために、怒りという感情を創り出し利用したのだ。
人が怒って怒鳴るときには、言葉で説明するのを面倒に感じ、より簡単に相手に言うことをきかせるため、怒りという感情を創り出しているといいます。
怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。
怒りは一瞬にして起こる感情ですが、たとえば怒っているときに上司から電話がかかれば丁寧に応対し、電話が終わればまた怒りはじめる、ということがあります。怒りは自ら創り出している「道具」ということです。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。
もしも幸せを実感できずにいるのであれば、「このまま」でいいはずがない。
誰かのようになりたいと思っても、その人として生まれ変わることはできません。あなたは「あなた」です。あなたは「あなた」であっていいのです。でも、もしも幸せを実感できないなら、一歩踏み出して、幸せを手に入れなくてはならない、と言っています。
大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである。
誰かのようになりたいと思うのは、「何が与えられているか」に注目しているから。「与えられたものをどう使うか」に注目すれば、「このわたし」をより良く生きようと思えます。
あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです。
自分の考え方を変えるのには、今よりも予測のつかない生活になるという不安が伴います。人は変わることの「不安」と、変わらないことの「不満」を比べて、変わらないことを選んでしまいがちです。
アドラー心理学は、勇気の心理学です。
あなたには、ただ“勇気”が足りない。いうなれば「幸せになる勇気」が足りていないのです。
これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。
自分の人生を決めるのは、過去の出来事ではなく、「いま、ここ」に生きるあなたなのです。
アドラー心理学の名言 対人関係
人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである。
アドラー心理学では、人間の悩みは、すべて対人関係の悩みであり、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みも消え去ってしまうと考えています。他者とともに生きるためには、なんらかの方法を学ばなければなりません。
不幸であることによって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。
自分の不幸を人に語り、誰の慰めも聞き入れず、「あなたにはわたしの気持ちがわからない」と言う人は、不幸をさらけ出して、武器のように使おうとします。しかしこの方法では、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいい。
人は誰でもより優れた存在でありたいという欲求を持っています。ただ、それは他者より優れていることを目指すのではなく、各々が自分の目的に向かって進んでいけばいいのです。
健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。
自分と他者とを比べれば、他者との間に優劣が生まれ、不健全な劣等感が生まれてしまいます。本来は、年齢、性別、環境などの条件の異なる人々が、それぞれの目的地に向かって交差して歩いているようなものです。それを、同じスタート地点から同じゴールへ向けて競争していると錯覚してしまう人が多いのも事実です。
でも「今の自分」を「理想の自分」と比べるなら、それに届いていない自分に健全な劣等感を感じるのは誰でも同じです。そういう感じがするものだと意識して、ただ理想に向かって努力を重ねていけば、ずっと穏やかな心でいられます。
われわれは「同じではないけれど対等」なのです。
私たちは一人ひとりが違っていて、それぞれに独自の価値があり、対等な存在です。絵の具の色すべてがそろってこそ自由に絵が描けるように、私たち一人ひとりも、世界を構成するために等しく必要な存在です。
「人々は私の仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方は全く違ったものになります。
誰かと競争をしている限り、勝たなければならない。勝っていれば勝ち続けなければならない。他者を信じることができず、心の休まるときがありません。
対人関係を競争で考えると、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのように錯覚して、祝福することもできません。
でも競争をやめて、人々を地域や国や世界を構成する仲間ととらえると、世界は安全で快適な場所に映ります。
人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
「わたしは正しい」と考えると、従って相手は間違っていると思うことになり、議論の焦点が「主張の正しさ」から「人の正しさ、対人関係の在り方」に移ってしまいます。
そして「この人は間違っているから、わたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争うことになってしまいます。
あなたの意見が正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。
主張が正しいか否かは、勝ち負けとは関係ありません。自分と違う意見を持つ人を、無理やり自分と同じ考えに変えさせる必要もありません。負けたくないとの一心から、誤った道を選んでしまうことにもなりかねません。
アドラー心理学とは、他者を変えるための心理学ではなく、自分が変わるための心理学です。
他者が変わるのを待たなくていい。状況が変わるのを待たなくていい。あなたが最初を一歩を踏み出すのです。
アドラー心理学の名言 他者の課題を切り捨てる
アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。
他者から認めてもらう必要はありません。むしろ、認めてもらおうとしてはいけないのです。
われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです。
あなたはあなただけの人生を生きています。誰のためかというと、あなたのためです。あなた以外に、あなたの人生を生きてくれる人はいません。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。
他者から認められることばかりを願うと、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待を満たすために、自分の考えや行動を変更することになります。本来の自分を捨てて、他者の人生を生きることになってしまいます。
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。それが当たり前なのです。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という観点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。
たとえば子どもが勉強しないとき、親が無理やり勉強させるという行為は、衝突のもとになります。
勉強するのかしないのかは、子どもの課題です。その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは子どもだからです。授業についていけなくなったり、希望の学校に入れなくなるのは子どもです。
親は、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておくのみにすべきと言います。
いつでも自分の課題と他者の課題とを分離し、他者の課題には踏み込まない、そして自分の課題には踏み込まれないことによって、対人関係のトラブルは回避できるのです。
本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。
「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」ということわざがあります。どんなに本人のためを思っていても、正しい手順を踏まなければ、うまくいきません。
自分を変えることができるのは、自分しかいません。
それが「あなたの課題」ならば、たとえ親に反対されても従う必要はない。自分の課題に足を踏み込ませてはいけないのだ。
妻の機嫌が悪いときに、夫が責任を感じてはいけない。不機嫌でいるか上機嫌でいるかは、妻の課題。その課題を勝手に背負うから苦しいのだ。
他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自分の人生を重く苦しいものにしてしまいます。「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を引きましょう。そして他者の課題は切り捨てる。こうすることで、人生の荷物を軽くすることができます。
自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。
あなたの選んだ道について、他者がどのような評価を下すのかは、他者の課題です。人の評価によって自分の道を変えさせられてはいけないし、人に評価を変えさせることもできないのです。
自由とは、他者から嫌われることである。
誰かに嫌われるということは、あなたが自由に生きている証(あかし)です。できれば誰からも嫌われずに生きていたいものですが、すべての人から嫌われないで生きるのは不可能なことです。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
嫌われる可能性を怖れることなく、前に進んでいくことで、自由になれるのです。あなたのことをよく思わない人がいても、それはあなたの課題ではありません。
幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれます。
アドラー心理学の名言 世界の中心はどこにあるか
「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
他の人がどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価して、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか。これにとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていない状態だと言います。
他者へ関心を向けることで、このとらわれを減らすことができます。
「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。
誰もが自分の人生の主人公ですが、世界の主人公ではない。あくまでも共同体の一員であり、全体の一部だということを思い出すようにということです。
「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければいけない。
学校、職場、地域、国など、自分の所属している共同体に何かを与えてこそ、自分の居場所を得られるのです。
もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。転校するのもいいし、退学したってかまわない。退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。
学校で自分の居場所を見つけることができないとき、学校がすべてだと思ったままでは、苦しみをなくすことも難しいままです。そして、自分の居場所を求めて、より小さな共同体である家庭の中に逃げ、登校を拒否したりということも起こってきます。
そこで、より大きな共同体に目を向けることが必要になります。学校の外には、もっと大きな世界が広がっています。自分がその大きな世界の一員であることを知ってしまえば、それまで学校の中で感じていた苦しみが実は大したことではなかったことが理解できます。
「より大きな共同体の声を聴く」、これは対人関係で困難を感じたときには、どんな場合でも有効です。
たとえば「学校」という小さな共同体では、教師の権力が大きいという共通感覚で物事が判断されています。でも、より大きな「人間社会」という共同体の共通感覚で考えれば、生徒も教師も対等の「人間」です。理不尽な要求があれば、正面から異を唱えて構わないのです。
関係が壊れることだけを怖れて生きるのは、他者のために生きる、不自由な生き方です。
あなたが異を唱えることで壊れてしまうような関係なら、最初から結ぶ必要がありません。捨ててしまって構いません。
ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれています。
他者をほめる行為は、「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」につながってしまいます。アドラー心理学では、あらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」、つまり「対等な関係」とすることを提唱しています。
たとえば子育ての場面で、叱って育てる方法と、ほめて育てる方法がありますが、アドラー心理学では、どちらもしてはいけないといいます。
お手伝いをしてくれた子どもを「えらいわね」とほめるとき、親は無意識のうちに上下関係を作っています。横の関係があれば、「ありがとう」という感謝の言葉が出てくるはずです。
人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく。
ほめてもらうことに喜びを感じるのは、「縦の関係」に従属して「自分には能力がない」と認めることになります。ほめてもらうことが目的になると、他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになってしまいます。
お互いが違うことを認めて対等な「横の関係」を築き、援助する。これをアドラー心理学では目指します。この「勇気づけ」と呼ばれる援助をお互いにできれば、それぞれが自分の課題に立ち向かうための勇気を取り戻すことができます。
いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。
評価の言葉は「縦の関係」から出てくる言葉です。「横の関係」を作るためには、「ありがとう」という感謝の言葉、「うれしい」という喜びを伝える言葉、「助かったよ」というお礼の言葉を伝える。これが「勇気づけ」のアプローチです。
人は、自分に価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。
人は「わたしは共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ、自らの価値を実感できる。
他者に働きかけ、自分の主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこで私たちは自分の価値を実感できます。他者からほめられたり、良いと評価されるのではなく、自分が「わたしは誰かの役に立っている」という生の実感を得ることが、生きる勇気につながります。
誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。
何かの「行為」によって役に立っていなくても、ここに「存在」しているだけで人は役に立っている、とアドラーは言います。
他者を「自分にとっての理想像」と比べて不満を口にするのは、「縦の関係」です。そうではなく、ありのままに見て、そこにいてくれるだけで嬉しいと思って感謝の言葉を口にするのが、「横の関係」です。
この「横の関係」によってつながった、人間社会という大きな共同体の中で「ここにいてもいいのだ」という所属感を持てることが、対人関係における幸せにつながっていきます。
他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、アドラー心理学では「共同体感覚」といい、共同体には家庭や学校、地域社会、国家、人類まで含まれるとしています。
この概念に対して反論されたとき、アドラーが答えたのが、この名言です。もちろん、人類までというのは理想ですが、どこかで所属感を持てるようにしていきましょう、ということです。
アドラー心理学の名言 「いま、ここ」を真剣に生きる
できない自分を責めている限り、永遠に幸せにはなれないだろう。今の自分を認める勇気を持つ者だけが、本当に強い人間になれるのだ。
「自分を認める」というのにも、自己肯定と自己受容の違いがあります。
自己肯定というのは、できないのに「わたしはできる」と、自分に暗示をかけることです。これは自分に噓をつく生き方であるともいえます。「今回はたまたま運が悪かっただけだ。本当はできるんだ」などと言い聞かせることです。
自己受容というのは、できなくても「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。「今回はここまでしかできなかった。もっとできるようにするには、どうしたらいいか」を考えることです。
自己受容によって「自分に何が与えられているか」を見極め、それをどう使うかを考えることで、自分を変えていくことができるのです。
他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。
他者への貢献として最もわかりやすいのは仕事です。社会に出て働くことや、家事をこなすこと。労働によって他者貢献をし、誰かの役に立っていることを実感して、共同体感覚を持てるようになるのです。
人生とは、連続する刹那なのです。
人生を、高い目標に向かって長い努力をする「一本の線」のように考えると、目標に到達するまで、人生の大半が「途上」になってしまいます。アドラー心理学は、人生は「点の連続」だといいます。
われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。
目標に向かって努力をしていても、勉強や練習などをしているときには、今していることに集中しています。そして目標に到達する人もいれば、別の場所に行きつく人もいる。どちらも、「途上」で終わったわけではありません。勉強や練習などに取り組んでいる「いま、ここ」が充実していれば、それでいいのです。
たとえ目標がなくても、「いま、ここ」を真剣に生きればいいといいます。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
誰かと競争する必要もなく、ただ「他者に貢献するのだ」という意志を持って、「いま、ここ」を真剣に生きていれば、つねに幸福とともにあり、仲間とともにある。必要なのは、やってみようという勇気だけです。