聖書から一言の短い名言 豚に真珠 目から鱗などを解説(英語訳つき)

short-bible-verses宗教家の名言

聖書の言葉から、ことわざや名言として広まった短い言葉をご紹介します。

前後の部分も聖書から引用します。わかりやすい新共同訳の「現代語訳」、格調高い大正改訳(1950年版2009年校正)の「文語訳」、新国際版聖書(NIV)の「英語訳」とを並べてご紹介しますので、読み比べをしてみると、補い合って分かりやすくなるのではと思います。

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たった一言の聖書の名言と解説

Short Bible Verses

「人はパンのみにて生くるにあらず」

イエス・キリストは精霊によって荒野に導かれ、四十日間、断食をし、空腹を覚えられました。

新共同訳
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

文語訳
試むる者きたりて言ふ『汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと爲らしめよ』
答へて言ひ給ふ『「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と録されたり』

The tempter came to him and said, “”If you are the Son of God, tell these stones to become bread.”
Jesus answered, “”It is written: `Man does not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.’ “”
―― <マタイによる福音書 4章3~4節>

「誘惑する者」とは、サタン(悪魔)のことです。飢えてパンを必要としているイエスに、神の子の力を使って石をパンに変えて食べるよう誘惑します。

このときイエスには石をパンに変えることができたけれども、そうなさいませんでした。神の御心に従われたのです(「主なるあなたの神を試みてはならない」と聖書にあります)。

そして、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」という言葉でサタンを撃退なさいました。
(この言葉は聖書の申命記8章3節「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」からの引用です。)

人の体の命はパン(食べ物)によって保たれ、霊の命は神の言葉によって保たれています。人間が人間たるゆえんは霊によるものだから、パンを食べるよりも神の言葉に従うほうが大事だということです。

「隣人を愛しなさい」

イエス・キリストの登場する前、ユダヤ教の教えの中には、律法(宗教・生活上の規範)で定められた、「してはいけない事・しなければならない事」が沢山ありました。

イエスと弟子たちの会話を聞いていた一人の律法学者(律法を解釈して講義した学者)が、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」とイエスに質問しました。

新共同訳
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。

文語訳
イエス答へたまふ『第一は是なり「イスラエルよ聽け、主なる我らの神は唯一の主なり。なんぢ心を盡し、精神を盡し、思を盡し、力を盡して、主なる汝の神を愛すべし」 第二は是なり「おのれの如く汝の隣を愛すべし」此の二つより大なる誡命はなし』

You shall love your neighbor as yourself. There is no other commandment greater than these.

―― マルコによる福音書 12章31節

「大切なのは神様を愛することと、隣人を愛すること」。旧約聖書すべての要約を、この二つの組み合わせと説きました。

「人を裁くな」

新共同訳
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

文語訳
なんぢら人を審くな、審かれざらん爲なり。己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。

“Do not judge, or you too will be judged. For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
―― マタイによる福音書 7章1-2節

誰も完璧な人はいませんから、愛や同情や知識を持たずに他人を裁くのはいけないということです。それをすると、世の終末に、自分も同じように神様から裁かれるからです。

ただし、誰も彼も許していいということではなく、例外として、愛をもって裁くべき場合があるので、次の項で紹介します。

ここでは、よく考えずにすぐに人を非難したり、自分を顧みるのを忘れることのないようにと注意するために「人を裁くな」と言われています。

「人を裁くな」の例外

新共同訳
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。<中略>わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。

文語訳
現に聞く所によれば、汝らの中に淫行ありと、而してその淫行は異邦人の中にもなき程にして、或人その父の妻を有てりと云ふ。<中略>われ身は汝らを離れ居れども、心は偕に在りて其處に居るごとく、かかる事を行ひし者を既に審きたり。すなはち汝ら及び我が靈の、我らの主イエスの能力をもて偕に集らんとき、主イエスの名によりて、斯くのごとき者をサタンに付さんとす、是その肉は亡されて、其の靈は主イエスの日に救はれん爲なり。

Even though I am not physically present, I am with you in spirit. And I have already passed judgment on the one who did this, just as if I were present. When you are assembled in the name of our Lord Jesus and I am with you in spirit, and the power of our Lord Jesus is present, hand this man over to Satan, so that the sinful nature may be destroyed and his spirit saved on the day of the Lord.
―― コリントの信徒への手紙一 5章1-5章

コリントの教会内に、道徳的な問題が持ち上がったときの、パウロからの手紙です。

「父の妻」は後妻、つまり「その人」の継母と解釈されています。「サタンに引き渡す」とは教会から破門するということです。個人的に絶交するというのではなく、教会内に置かないという意味です。

継母と不倫をする者を教会から破門するように勧めるのは、このような人が教会の仲間の中にいると、信仰の妨げになり、キリストをも汚すことになるからというのが理由です。

そして破門は罰するためではなく本人の魂が救われるためであり、残った者は怒るのではなく悲しまなければいけないとも言っています。

のちにコリントの信徒たちは、この勧めに従いました。

破門は「隣人を愛しなさい」という教えに背かないかというと、罪を犯した者を教会内に置いて許していると、ますます罪を犯すようになるので、外へ出して霊を生かすという方法が彼を愛することになるということです。

「毒麦も育つままにしておけ」

新共同訳
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。

また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。

人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。

主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

文語訳
良き地に播かれしとは、御言をききて悟り、實を結びて、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍に至るものなり』

また他の譬を示して言ひたまふ『天國は良き種を畑にまく人のごとし。

人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ。苗はえ出でて實りたるとき、毒麥もあらはる。僕ども來りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麥あるか」

主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を拔き集むるを欲するか」主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』

But the one who received the seed that fell on good soil is the man who hears the word and understands it. He produces a crop, yielding a hundred, sixty or thirty times what was sown.

Jesus told them another parable: “The kingdom of heaven is like a man who sowed good seed in his field.

But while everyone was sleeping, his enemy came and sowed weeds among the wheat, and went away. When the wheat sprouted and formed heads, then the weeds also appeared. The owner’s servants came to him and said, `Sir, didn’t you sow good seed in your field? Where then did the weeds come from?’

`An enemy did this,’ he replied. The servants asked him, `Do you want us to go and pull them up?’ `No,’ he answered, `because while you are pulling the weeds, you may root up the wheat with them. Let both grow together until the harvest. At that time I will tell the harvesters: First collect the weeds and tie them in bundles to be burned; then gather the wheat and bring it into my barn.’
―― マタイによる福音書 13章23-30節

「毒麦のたとえ」として有名な箇所です。

敵とは、人々の敵ではなく、英語訳にある his enemy、「良い種を自分の畑にまく人」であるイエスの敵、悪魔です。

毒麦とは、小麦によく似ているけれども毒を持つ雑草。苗のときには小麦と見分けがつきません。しかも根が小麦と入り組んでいるために、毒麦を抜こうとすると小麦の根を傷つけたり、一緒に抜いてしまうことになります。

Lolium
毒麦

そこで収穫できる時まで待ち、刈り取ってから分けるように指示したということです。

このたとえ話には続きがあります。

新共同訳
それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。
マタイによる福音書 13章36–43節

世の終りには、悪い者は炉の火に投げ入れられ、善い者は神の御国に置かれるけれども、それまでは抜かない。つまり、人は審判の日よりも前に他人を裁いてはいけないということです。

ただ、これには例外があることは、上記の「人を裁くな」の例外の項で書いた通りです。破門は「苗の時点で毒性が明白な場合」ということになります。

「豚に真珠」

新共同訳
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

文語訳
聖なる物を犬に與ふな。また眞珠を豚の前に投ぐな。恐らくは足にて蹈みつけ、向き返りて汝らを噛みやぶらん。

Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and then turn and tear you to pieces.
―― マタイによる福音書 7章6節

「豚に真珠」は、貴重なものも、価値のわからない者には無意味であることのたとえとして慣用句になっています。「猫に小判」と同じような使われ方をしていますね。

でも「猫に小判」と違うのは、無意味というだけではない点です。

ここで言う「聖なる物」とは、神様から人間に与えらえた福音の真理のことです。この真理は真珠のように尊いものです。キリスト教徒となってこの真理を託された人は、自分の預かっているものが貴重なものだと自覚しなくてはいけません。

キリスト教を広めることが必要だと思っても、相手を選ばずに軽々しく広めようとすることは聖物の冒涜にあたるというわけです。

犬も豚も汚れたまま生きている動物であり、神様の聖なるものを好まずに生活している人々を意味します。中には聖なるものについて全く無感覚な人がいて、福音を受けないだけではなく、あえて冒涜をしたり、使者に害を与えることがあるから、相手をよく見分けなさいということです。

「目から鱗が落ちる」

ユダヤ人サウロはキリスト教徒を迫害していました。ある日、旅の途中に天から光がさして、その場に倒れ、「なぜ、わたしを迫害するのか。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」というイエスの声を聞きました。

一緒に旅をしていた者たちもその声を聞いていたので、目の見えなくなったサウロの手を引いてダマスコに連れていきます。

一方、ダマスコに住むアナニアという弟子も、サウロを訪ねよというイエスの声を聞きます。

新共同訳
そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウロ、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、また食事をとって元気を取りもどした。

文語訳
ここにアナニヤ往きて其の家にいり、彼の上に手をおきて言ふ『兄弟サウロよ、主すなはち汝が來る途にて現れ給ひしイエス、われを遣し給へり。なんぢが再び見ることを得、かつ聖靈にて滿されん爲なり』。直ちに彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得、すなはち起きてバプテスマを受け、かつ食事して力づきたり。

Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord–Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here–has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, and after taking some food, he regained his strength. Saul spent several days with the disciples in Damascus.
―― 使徒言行録 9章17-19節

3日間、目が見えず食事もとれなかったサウロは、アナニアによって視力と聖霊とを与えられ、キリスト教の信仰を決意し、洗礼を受けました。イエスの声を聞き、自分の身に劇的な変化が起こったこと、キリスト教がどのようなものかを知ったことがきっかけとなり、人生が百八十度の転換を迎えました。

サウロはもともと地位も高く、ユダヤ人としては最高の教育を受けた信念の人でもあり、のちにキリスト教の偉大な伝道者となります。

アナニアはサウロによって仲間が迫害されていることを知っていたため、最初は戸惑いますが、「わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である」というイエスの言葉を聞いて、出かけていきます。サウロに会った時には「兄弟」と、仲間として呼びかけて役目を果たしました。

「目から鱗が落ちる」は、何かがきっかけとなり、急に視野が開けて、物事の実態が理解できるようになるという意味の慣用句としても使われています。

「狭き門より入れ」

新共同訳
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
文語訳
狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狹く、その路は細く、之を見出す者すくなし。

Enter through the narrow gate. For wide is the gate and broad is the road that leads to destruction, and many enter through it. But small is the gate and narrow the road that leads to life, and only a few find it.
―― <マタイによる福音書 7章13-14節>

門とは、イエスの門、イエスの指し示す道を意味します。

ヨハネによる福音書 10章9節に、
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」とあります。人々を「羊」に、イエス・キリストを「夜のあいだ羊を入れておく檻(おり)の門と、良い羊飼い」に例えた部分です。

羊は夜間は檻に入れられますが、朝になると羊飼いが一匹一匹、羊の名前を呼んで野に引き出します。羊はこの門を通らなければならない。障壁を乗り越える者は盗人だと説いています。

イエスの教えを守りこの門を通る人だけが救われるのに、これを見い出してこれに入る人は少ない。地位や名誉や快楽を求めて別の道を進む人が多い。だからただ多くの人が行くのを見てそのあとについて行くのではなく、熱心に正しい道を求めることが必要である、と言っています。

アンドレ・ジッドの小説『狭き門』のタイトルは、この言葉から採ったということです。
 


 

 

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